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リンス後にトリートメント派。

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『記憶の果て』で読書の果て。

浦賀和宏の『記憶の果て』を読みました。1998年の作品です。


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以前yositosiさんと好きな本の話をしたときにお勧めされて購入し、ずっと読もう読もうと思っていてようやく手をつけたのでした。なにせけっこう分厚いですから。

デニーズに入って読み始め、読み終えて気づいたら6時間経ってました。その間ドリンクバーを3回しか注がないくらい時間を忘れて楽しめました。いやー集中したなー。

内容はSFとミステリーを合わせたようなもので、内容に関することを書き記すと完全にネタバレになってしまうため、どうやって感想書こうかな、と考えていましたら、いつしか読書感想文そのものというメタなことについてものすごく頭を悩ませてしまいました。

思えば子供の頃から読書感想文が苦手でした。

…ううむ、本を読んで感想を述べる、とはどういうこと…?

《注:以降しばらく話があちこち飛びます》

小学生の頃、本のあらすじばかり書いて最後に「おもしろかったです」と申し訳程度の感想で終わるのはダメ、というようなことを言われたような言われていないような、あやふやな記憶がわずかばかりあります。たしかにそれまでは「誰々が何をしました、こう言いました、おもしろかったです」的な形式の文の羅列しか書いていませんでした。数年後「読んでいて気になったところは付箋を貼るとよい」と別の先生に教えられて正直に従ってみましたら、「誰々が何をしました、こう言いました、おもしろかったです」の数が倍増しただけでした。つまり細かいところを断片的に覚えているものの全体として俯瞰できていませんでした。木を見て森を見ないことになっていたのです。

それと不思議なのは、感想として「おもしろかった」以外の解答が存在することを想像もしていなかったことです。おそらく中学生になるまで「おもしろくなかった」という感想文が学校の宿題として提出しうるシロモノだと考えたこともありませんでした。読書感想文とは「いかにおもしろかったという感想を上手に書くか」という技術の訓練だと信じていたふしがあるのです。

結局ちゃんとした書き方を教えてもらったことはなかったと思います。そして現在に至り、ある程度文章を読み書きするレベルが上がってはきましたが、読書感想文のコツはいまいちつかめておりません。

困りましたので、参考とばかりにネット上の『記憶の果て』に関する感想を読んでみました。検索して最初の方に出てきたいくつかを見て、だいたい2種類あるなと思いました。

ひとつは、ミステリー/SFとしてのエンタテインメント性への賞賛。

ひとつは、登場人物の人間性の未熟さに関する苦言。

前者は共感できておおいに納得したのですが、意外だったのは後者です。主人公の悪い意味での子供っぽさや、友人のあまりのKYさ加減などが大変不快だった。よってこの作品はダメです、と結論付けていることに衝撃を受けました。パンチだけで戦うんだと思ってたのにキックもしていいの!?みたいなタイプの衝撃でした。

ただよく考えると、この作品の主人公も似たようなことを言っていました。ミステリが嫌いな理由として、人が死んでも冷静にふるまう完全無欠の名探偵が嫌いだからだ、と。どんなに優れた謎解きがあったとしても、名探偵が嫌いだという一点だけですべてがアウトとなってしまうのでしょう。奇しくも小説に対する苦言と、小説の主人公が語る苦言は同じものだったのです。そして彼らとは異なる意見の私もまたいるわけです。その私と同じような意見の人も大勢いるのです。

人によって評価の軸は本当に千差万別なんだと思います。ミステリー要素を重視すれば「裏をかかれた/先が読めた」という軸になりますし、SF要素を重視すれば「しかけの設定に感心した/陳腐だと感じた」という軸になりますし、全体でみると「得るものがあった/なかった」になりもしますし、感情だけを考えれば「好き/嫌い」になることもあります。そこで例えばある人は「ミステリー要素を高く評価するけど登場人物が苦手だから全体としてはダメ」と、軸に優先順位をつけて評するということをするわけです。

今ではそれも正しく感想文なんだなと思えます。

いや待てよ、正しい感想文ってなんだ?
自分で言っておいてよくわかりません。

感想そのものに正解があるわけはないので、感想文に間違いがあるとしたら明らかに解釈が間違っているとかでしょうか。桃太郎の感想文で「サルの裏切りによって桃太郎が志半ばにしてこの世を去ったのは、あまりにも理不尽で、やるせない思いです。サルの不審な動きに気付きながら何もしなかったキジも同罪です。イヌ(犬種:パピヨン)はとても可愛かったです」などと、本に書かれてもいないことをベースに感想を述べるのは間違いでしょう。

いや待てよ、間違いなのか?

桃太郎が鬼を退治せずに夭逝したというのは明らかに事実でないのでアウトだとしても、イヌの犬種がパピヨンだとは書かれていなかったといって、様々な描写からこのイヌの犬種はパピヨンと推察される、もしその解釈が正しければ~と私見を述べることはアリでしょう。書かれていないことは読者が補うしかなく、そこに著者の意図とズレがあったからといって感想文として正しくないとは断じることには無理があります。

だから本に書かれていたことを捻じ曲げさえしなければ、感想文はどう書かれてもいい。ということでよろしいでしょうか。よろしいことにしましょうよ。

で、何の話でしたっけ?

えーと、あー、なので、ミステリー/SFの感想文でその謎解きについて書かなくても、主人公いけすかないとだけ書いてもいい、ということですね。せいぜい生じるのはその感想文を読む人に(おもしろい・つまらない/役に立つ・役に立たない)などと思われることの違いということだけで、要するに中身のない感想文を書いたら「こいつの感想文は中身がないな」という新たな感想文が書かれるかもしれないというだけですね。感想文の永久連鎖。

そろそろ本題に戻ります。

『記憶の果て』の感想ですが、ミステリー要素がおもしろかったとか、でも謎の答えは××じゃないかとかいったこと以上に、高校三年生でこれを書いたのか!という驚きが強かったです。なぜ驚いたのか。それは自分の高三時代と比べたからでしょう。すぐそうやって他人と比較してくすぶるんですよ32にもなって。

プロフィールにしたがうと、作者の浦賀和宏氏は私と同年代です。正確には私より1歳上です。この作品が発表された頃、私は18歳で高校を卒業して大学に入る年です。まだ携帯電話が一般的に普及しているとは言い難く、作品の中でも固定電話がほとんどでした。そうだったなあと思いながら読むわけです。そして登場人物が聴く音楽がYMO、アディエマス、ディープフォレスト、エニグマ、ヴァンゲリス、エンヤだったりするのですよ。『シェルタリング・スカイ』のサントラとか出てくるのです。このあたり、異様なほど私が当時聴いていた音楽と似通っているんですね。離れみたいな部屋で一人暮らししてゲームばっかやってたなあと振り返り、だいぶ無為に過ごしてなと思って我に返ると、同じころに浦賀氏は小説を書いてデビューしていたんだなと改めて気付くと、こういうわけです。

今年自分が33歳になると思うと焦燥感に駆られます。ただその焦燥感はやる気に変換可能なエネルギーでもあると思います。必要なのは触媒。この本はその触媒のパーツの一つになったんじゃないかと感じています。こうやって長々と書き連ねるきっかけにもなったわけですしね。

以上、読み返すと感想文と言う体裁で私が書いたことは自分のことばかりでした。これって感想文になりますでしょうか。

《注:結局最後まで話が飛び散らかっていました》

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