Category: text

□□■

我が子の入園式へ行ってきた。齢0歳6カ月で保育園に入る。 「保育園落ちた」の話のようにうちの地域も激戦区だ。我が家はポイント的には中の中くらいだと思うけど、唯一夫婦で見学に行けた園に無事決まった。配偶者だけが見学に行ったところは全滅だったので、入りたいアピールとして効いたのかもしれない。 入る園は何十年も続く老舗で昭和感がつよい。自分が30年以上前に通っていた公立の園と雰囲気はそう変わらない。建物は年季が入っている。入園式も壁に紅白の幕がかけられていて、式次第が模造紙に筆で書かれているのも昭和っぽい。まあ現代の一般的な入園式がどんなものか知らないけど。とにかく新しさより懐かしさがあった。 園長あいさつや担任発表、総会といったプログラムが進む中、あまり内容に集中できなかった。ただぼんやりして、ああ親としてここにいるんだな、ということを実感していた。そして、自分は親としてここに馴染めないかもしれないな、とも感じていた。そして、馴染めないかもしれないけどやっていくしかないな、とも思っていた。 クラスに分かれて説明を受ける際、自己紹介の一番手に指名された。心の準備ができていないままあわてて自分の名前を名乗ろうとして、ちがうぞ、ここは入園する我が子の名前を言うシーンだ、と気付くことができて間一髪ミスを回避した。神回避だ。しかし我が子が主役という状況に慣れていないのだから親としての意識がまだまだなのだと痛感した瞬間だった。 配偶者は自分よりよっぽど社交的だけど、それでも月曜からうまくやっていけるか不安になっている。我が子は何も知らずに平和そうにしている。親の親自身の心配は子に関係ないので、楽しくやってくれればそれが一番だ。友達ができて保育園に行きたいと思ってくれればすべてよしだ。それはたしかだ。

□□□

ずっと過大評価と折り合いをつけられずにやってきたと思う。 小中の学級委員だったり、中高の部活動のキャプテンだったり、大学と就職の推薦だったり。 自分からリーダーに立候補したことはない。むしろ可能な限り避けたかった。それでも「○○くんがいいと思いまーす」的なやつで祭り上げられたり、教師から指名されたりで仕方なくやっていた。 なぜ自分なのか、という本当の理由は知らない。なんとなく、マジメそうだとか、成績がいいとか、教師が扱いやすい「いい子」だったからなんじゃないかとは思うけど。少なくともリーダーシップを買われたのでないことは確かだ。リーダーとしてまともに機能していなかった。キャプテンを務めた某運動部は、新入部員が集まらず存続の危機に陥った。中学・高校ともに。 大学の推薦入試を受けた時、これが一番のピンチだった。のちほど研究室の恩師に聞いたところによると、面接での印象は最悪だったらしい。しかし合格だった。今の会社も推薦で入った。大学か就職で挫折していたら、もっと自分の評価と内実を近づけられたのかもしれないと考えてしまう。 そして今、三十代も半ばを過ぎたタイミングで、ついにボロが出始めている。 リーダーシップがないのに、リーダー的な役割を期待されてしまう。しかし期待に応えられず、もの足りない、なにか違う、と怪しまれだしている。 いったいどこをどう見てこのポジションに据えたのか。自分には相応しくないと思ったのだから断ればよかったのか。しかしキャリア的にも年次的にも避けられないところに来ているのも確かだ。その時は仕事の状況からしても意向に沿うことがベストだと思ったし、その状況が当初とだいぶ変わって想定とは違う環境になっていることが問題といえば問題なのだけれど、やはり根幹は過大評価にあるのだと思っている。どうしてもこう言いたくなる。なんでオレなんだと。 自分のリーダーシップのなさによって、チーム内でうまく立ち回れなくなりつつある。苦しい。胃が痛い。 もう来週末から期が改まる。時間は毎日同じ速度で流れている。先が見えない。見たくない。

□■■

会社が移転する先の街を見てきた。 スタバが5軒、シネコンが3軒ある街から、どちらも皆無な街に移る。 通勤時間は倍に増える。 ドトールに入ってコーヒーを飲んだけど、なぜか読書に集中できないし、目の前に大声で独り言をつぶやく老人がいたからすぐに出てきてしまった。 自分が楽しいと思えることってなんだろう、ということがわからなくなっている。 ブログやツイッターを書かなくなったのは、ネットが息苦しくなったから、読まれている実感がなくなったから、小説に時間を割いていたから、私生活が忙しかったから、などなど理由をつけようと思えばつけられる。それらはたぶん、いろいろなことが複合的に絡み合って楽しくなくなったから、でまとめられる。 過去の記事やツイートを読み返すと、まったく自分が書いたのだと信じることができない。違和感しかない。ほんとにおれが書いたんかこれ? 書き続けているあいだはその内側に取り込まれているから違和感がない。自分のなかにテキストがあり、テキストのなかに自分がある。両者を合わせてひとつの人格をつくっていたようなものだ。 それが一度断絶すると、はっきり別物になってしまった。過去のテキストに見出せるのは過去の自分。連続した自分という存在はない。 しかし現時点での唯一の楽しみは、もうすぐリリースされるスマホ版ロマサガ2だ。中学生時代の思い出だ。やはり連続していなくても現在の自分をかたちづくっているのは過去の自分のようだ。

■□■

指をチュパチュパしゃぶるからチュパちゃん(ときどきチュパリーナ)と安易に呼ばれる我が子が、離乳食デビューした。 今まで母乳しか受け付けず、哺乳瓶をあてがうとゆるやかに表情が「これ嫌…」になって静かに拒絶していた人が、薄くのばした粥、しかもスプーンという未知の器具で食わされることを受け入れるのか??という不安があり、夫婦そろって早朝、緊張の面持ちで何も知らない我が子の口元にスプーンを差し出した。 我が子の目はどこを見ているかわからないが、なんと差し出されたスプーンを自分の食事だと認識し、おっぱいを欲しがるのと同じ動きで口を大きく開けたのだった。 夫婦歓喜。 粥でろーん。 注ぎ込まれた粥はおいしくないのか、味わうだけ味わってよだれかけに吐き出された。でも不快ではなさそうだ。もう一回やるとまた欲しそうに口を開け、粥を味わい、吐き出した。 こんな他人が見たらなんでもない光景(自分で読んでも劇的な感じはしない)は、それでもうちの家族にとっては一大イベントで、多くの家庭で同じようななんでもない一大イベントが毎時毎分起きているだろう。 こういう一喜一憂は幸せとしてはささやかだけど、幸せを感じる閾値は低いほうがいい。そのほうが世の中が楽しくなる。と思う。 もちろん心配はある。これから先、食物アレルギーが出ないかとか、好き嫌いが顕著で偏食しないかとか。 でも、きちんと日々の幸せを拾えていれば、なにか問題が出たときも必要以上に不幸がらずに済むんじゃないか。必要以上に欲もかかなくなるんじゃないか。足るを知るだ。足るを知ろう。

■■□

Googleのアルファ碁(AlphaGo)という人工知能が、囲碁世界最強クラスのイ・セドル9段に勝ったそうだ。(これを書いている時点でアルファ碁の3勝1敗) 囲碁のルールを知らないので勝負の中身はまったくわからないけど、ヤバイと思ったのは、アルファ碁の手が解説者が首をひねるくらい意味不明なのに、結果として勝ったらしいことだ。 自分の理解としては、アルファ碁には定石とかアルゴリズムの概念はなくて、とにかくものすごい回数の実戦(3000万回)を通じて学習し「ここに石を置いたらよさそうだ」ということだけがわかっている、て感じなんだけど、合っているか自信はない。 合っているとすると、アルファ碁は自分がどうして勝てたか説明できなそう。「3000万回の経験からするとそこに置くのが妥当デス」くらいしか言えなそう。納得できる「理由」てのはすごく人間的な概念なのかもしれない。人間的で不完全な。でも「理由」は少ない情報で再現性を持たせる合理的な手段なのかもしれない。「○○だから」「あーなるほど」ですませられる。人工知能は学習した膨大なデータをまるごと渡すしかない(たぶん)。 ところで、アルファ碁の考えが人間に理解できなくてもきちんと正解を導き出せたのは、正解があるからだ。 もっとちゃんと言うと、アルファ碁の出した答えが正しいと人間に理解できるのは、囲碁という勝ち負けがはっきりしたゲームの結果だからだ。アルファ碁が勝ったんだからアルファ碁の計算は正しい。と人間は理解できる。 となると、結果がはっきりしないもの、勝ち負けのように明確な答えがないものについて人工知能が出した答えは、それが正しいと人間に判断できるのか、そこがよくわからない。 なにか証明する手段があるのか。それとも、何度かテストしてみてどうやら合ってそうだからとゴーを出すのか。それとも、複数の別の学習した人工知能同士で多数決でもとるのか。それってエヴァのマギシステムとかマイノリティ・リポートのやつそのまんまだ。 とっくにSFの世界に足つっこんでたってことなのだろうか。

■■■

そういや我が子が紙食ってた。 そうと気づいたのは帰宅直後、ポケットに入れっぱで洗濯してしまったティシューみたいなのが口の周りにべっとり付着して前衛アート(アクリル絵の具で描かれてそう)みたいになってるのを発見したからだ。 ちょうど配偶者が家事のために目を離した、段落と段落のはざまのような一瞬だったらしい。 急いで口の周りを拭くあいだ、我が子は陽気に笑っていた。楽しそうでなによりだった。 口の周りはきれいになった。その笑い続ける顔を眺めていると、大きく開いた口の奥にあやしい物体がちらちらと見える。これは、と慌てて指をつっこむと、上あごにべっとりと溶けた紙が貼りついていた。海苔が貼りつくああいう感じで。 当たり前だけど、紙とはなんぞや、それ食えないの?ということを赤子は知らない。なにも知らない。単に手近にあったサムシング(どつやら口に入れると上あごに貼っつくみたいだ)でしかない。 楽しそうでなによりだけども。 紙でよかったものの。 誤飲おそろしや。

■□□

たまたま通りかかったイベント・スペースで古本市が催されていたので立ち寄った。 眺めていたらチュツオーラ『やし酒飲み』があって手に取り、悩んだ末に棚に戻した。値段がほぼ定価だったからだ。 また眺めていたらオルハン・パムク『わたしの名は「紅」』があって手に取り、悩んだ末に棚に戻した。分厚かったからだ。 最近、どうも本が読めない。 表紙を開いて1ページ目から読もうとすると、先の長さを考えてためらってしまう。図書館で本を借りても、読み切れずに返却することが増えている。 読みやすいものをと思ってC.W.ニコルのサバイバル本を手に取り、だいぶ悩んだ末に棚に戻した。自分の求めるものがわからなくなったからだ。 最終的にパムクを手にレジへ向かった。アマゾンの中古より安く買えたのでよかったとしたい。読めるかな。

□■□

腹が減っている。 それにしても最近、食が細くなった。 もともと爆食いする質でもないけれど、育休中の配偶者が用意してくれる弁当がスモールサイズにもかかわらず、おおむね足りている。 配偶者すら「こんな小さいのでよく足りるね」と感嘆するレベルで、試しに大きな弁当箱(流行のスターウオーズの絵があしらわれている)に替えたところ、完食できるのだが、ここまで多くなくてよいと思ってしまった。 きっと高校時代の2/3程度の量だ。 年齢だけは高校2回分に達したのに。 しかし不思議なことに、外食して「ごはんおかわり無料」なんて書いてあるとついおかわりしてしまう。 飲み会のコースで料理が余り気味だと、率先して皿を処理していく。宴席の掃除屋と呼んでくれてもよい。 食への欲求よりも、モッタイナイが支配している。 タダナラモラッチャオウカナが支配している。 オナジリョウキンナラタベナキャソンデショが支配している。 自我とはなんなのか。

□□□

最近、仕事から帰ると、ベッドか床に寝転がっている我が子がこちらに気づいて笑ってくれる。 それはつまり、①我が子に顔を覚えられている、②帰ってきてうれしいと思われている、という二点が自明なわけで、たまらなく喜ばしい。 ところで、 我が子には一所懸命考えて付けた大切な名前があるが、夫婦ともに割と「ぷーちゃん」と呼ぶことが多い。 これはよくおならをするからで、おならぷーちゃん、略してぷーちゃんという理屈だ。 しかし考えてみると、①赤子は誰にも気兼ねすることなくおならをひねる、②おならをひねる赤子はかわいい、という二点が自明なわけで、我が子だけが特別なのではなく、一般的な赤子はだいたいこれに当てはまる。 なのできっと日本全国の一万世帯くらいで赤子が「ぷーちゃん」と呼ばれているのだろうな、と思いながら今日もそう呼んでいる。 なお、おならの音声を名前にするのは本人が傷つくだろうから、物心がつくまでにはやめようと決めている。